出来ないことより出来ることに焦点、「起きたことを受け入れる」
ゴールボール選手・川嶋悠太の“切り替え力”
4〜8千人に一人の割合で発症する進行性の難病。網膜色素変性症を発症したのは、川嶋悠太選手が小学校4年生の時でした。中学校から通い始めた盲学校の体育の授業で、パラリンピック競技のゴールボールと出会いました。その夢を叶え、日本代表選手として主将も務めました。将来的に視力を失うことに対しても「そこからまた変わるのでは」と前向きです。競技以外にもやりたいことが次から次へと湧き出る川嶋選手の価値観とは?
ゴールボール
1チーム3人で、鈴の入ったバスケットボール大のボールを転がす送球方法で投げ合い、得点を競う。ボールのスピードは時速70キロに及ぶことも。選手は障がいの程度に関わらず、「アイシェード」と呼ばれる目隠しを装着し、全盲状態でプレーする。コートは6人制バレーボールと同じ大きさ。試合時間は前半後半で各12分。試合中は声援を送らないことがルールのため、無音の中で開催されるのが特徴。
大好きな野球ができなくなっていった10代
小学校4年生の時、自宅前で二人の兄とキャッチボールをしていた川嶋悠太選手は、突然ボールが視界から消えたと思い返します。
「兄がボールを投げたモーションは見えたのですが、気づいたら後ろでボールが地面にバウンドしていました。まだ外は明るかったので、『あれ?』と思いました」
いつもと違う様子を心配した兄たちが親に報告し、病院に行くことに。一通りの検査をしても原因はわからず、眼鏡をかけても視力が変わらなかったといいます。大学病院で精密検査をしたところ、網膜色素変性症と診断されました。
「自分の中ではいつか治るだろうという感じでした。一番つらかったのは、大好きな野球が思うようにできなくなっていったことです」
発症後、教室の席は最前列になり、中学校からは盲学校に通い始めました。ゴールボールと出会ったのは、体育の授業だったといいます。他にも、ブラインドサッカーやフロアバレーボールもしましたが、ゴールボールを極めようと思ったのは、主に二つの理由があったからです。
一つは、パラリンピック競技だったこと。もう一つは、中学2年生の時に赴任してきた体育の教員がゴールボール男子日本代表の監督だったこと。「やってみないか」と声をかけられた時のことを、「野球で培った投げることや、横になる動きが目に止まったのかもしれません」と振り返ります。
ゴールボールは1チーム3人制です。攻撃が得意な選手が両サイドに配置され、ディフェンスが得意な選手が中央を守るのが基本形です。「中学生まで野球を続けたのですが、守る方が好きだったのでディフェンスのポジションを希望しました」と話します。
1cm単位でポジショニングを調整
川嶋選手の身長と体重は160cm、63kg。アスリートとしては、決して大きくはありません。相手からの攻撃を阻止するディフェンスは、ボールが当たる面積が大きければ大きいほど有利です。海外の選手の中には身長2m超の選手もいます。大柄の選手が両手を伸ばした長さと比較
すると、1mの差が生まれることも。しかし、身体面での差があっても、1cm単位でポジショニングを調整し続けることでこれまで勝ち星を得てきました。
「チームの3人ともボールの位置によって各々のポジションへ細かに移動します。そうしたディフェンスのポジショニングや攻撃の組み立て方など緻密な連動性にまでこだわっているので、日本の方が間違いなく上だと思っています。実際に試合に勝った時、無失点で抑えられた時は、特にそう思いますね」
日本代表になると、チームメイトとは年間200日ほど時間を共にするため、家族より一緒にいる時間の方が長くなるとのこと。コミュニケーションを取るにあたり、初対面の相手には何が好きかをまず尋ねるそう。川嶋選手に好きなものは何かを尋ねると、「野球観戦と、個人が営む飲食店に行くことですかね」と照れながら答えてくれる一面も。
「試合やゲーム練習の後は録画したビデオを健常者のスタッフに説明してもらいながら振り返り、途中ビデオを止めながら、『この時はこう動いてほしい』などお互い伝え合います。そうしたやり取りが相互理解へとつながり、その結果、試合中に“阿吽の呼吸”が生まれると感じています」
「見えなくなっても、そこから変わるものがあるはず」
これまでの競技生活を振り返った時、ターニングポイントになったのは20歳の頃だといいます。 「リオパラリンピックの最終予選で負けた時、それまでの4年間で自信を持ってやってきたことが何もないことに気づきました。当時は東京での五輪開催も決まっていたので、『このままだと到底パラリンピックでメダルは取れない』と痛感してから意識が大きく変わりました」 課題を洗い出し、パワーとスタミナを高めることを目下の目標に据え、体作りから再スタートを切りました。長年、「男子ゴールボールでパラリンピック出場は難しいだろう」と言われ続けてきた中、東京の出場枠を獲得し、キャプテンにも任命されました。
「念願の枠を勝ち取れたのですが、それだけで達成感を得てしまい、本番に向けてモチベーションを高めていくことが難しかったです。結果は5位に終わりました」と吐露します。
悔しい経験をしても、「起きたことはしょうがない」と現実を受け入れ、早々に切り替え翌日から練習を開始するのが川嶋選手の強みの一つです。それは、自身の目に関しても同じ。視力
は年々低下していて、今では白状を使わないと外出が難しくなっています。将来的には、完全に視力がなくなることも自覚しています。
「見えなくなっても、そこからまた変わるものがあるのではと思っています。野球や車の運転などやってみたかったことは多々ありますが、そればかり考えていても前に進めないので」
見えなくて良かったって思うことも多いんですよ、と続ける川嶋選手。「例えば、コンビニのレジ横のお団子が見えないので、余計な買い物はしなくなりました」と少年のように笑います。
パリパラリンピックで、日本は金メダルを獲得しました。現在、代表選手の中では2番目に年齢が高いベテラン選手になっていることもあり、ロスパラリンピックを一つの節目と考えているといいます。
「現役引退後の不安は、正直あまりないですね。競技以外にもしたいことがあるので」と軽やかに話します。その一つは、鍼灸マッサージだといいます。あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師の国家資格を取得しているため、第一線から退いた後は、野球のトレーナー職やヘルスキーパー(企業内理療師)をはじめ、海外協力隊になって外国に住むことにも関心があるといいます。
出来ないことではなく、出来ることに目を向ける川嶋選手。その好奇心の強さが、自身のキャリアを切り拓く礎になっているのかもしれません。
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