清水 千浪 Chinami Shimizu

車いすバスケットボール

人生において、“ありたい自分像”を設定

車いすバスケットボール選手・清水千浪のモットーは「人間万事塞翁が馬」

幼少期から体を動かすのが大好きで、学生時代は中長距離の陸上、そしてサッカー選手としても活躍していた清水千浪選手。25歳で現役を退き、トレーナーとしてのキャリアも軌道に乗っていた時に突然発症したのが希少がんの褐色細胞腫でした。その後、パラアスリートとしてのキャリアにも挑戦し、車いすバスケットボールを始めて約2年で日本代表に選出されました。その背景には、家族の存在となりたいイメージ像に向かって突き進む決意がありました。

車いすバスケットボール

ルールは一般のバスケットボールとほぼ同じ。1チーム5人の選手がボールを奪い合い、ゴールにボールを投げ入れて、得点を競い合う。使用するコートやリングの高さも一般のバスケットボールと同じ。障害のレベルによって1.0〜4.5の持ち点が定められていて、試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはいけない設定となっている。


突然の体調不良から、生死をさまよう

滋賀県北部の長浜市で生まれた清水千浪選手は、4人兄弟です。幼少期は毎日近所の野山を駆け回り、休日は家族全員で山登りや山菜取りに行くなどアクティブな家族のもとで育ちました。とりわけ持久力があり、中学で始めた陸上競技では「1000m以上は得意でした」と笑います。

大学時代からは元々興味があったサッカーを始め、当時の日本女子サッカーリーグ「Lリーグ(現在のなでしこリーグ)でプレー。第一線を退いた後は、本格的にトレーナーとしてのキャリアを歩み始めました。その中で初めてパラアスリートを担当したのは、脊髄損傷で両足が全く動かないチェアスキー選手だったと言います。

「競技に取り組む姿勢が人並み外れていました。自分でできることを済ませた後にトレーナーとのワークに取り組んだり、食事をきちんと管理していたりする点が、とてもかっこいいと思っていました」

トレーナーになって5年が経った2012年、突然の体調不良から緊急入院をすることになった清水選手。状態は悪化し、一時は生死をさまよいました。一命を取り留め、意識を取り戻しますが、後遺症として足首が硬くなり、全身の血流の悪さが原因で足指5本を切断せざるを得なくなりました。告げられた病名は、「褐色細胞腫」という希少がんでした。


「人を感動させるプレイヤーでありたい」

闘病中も家族の存在に助けられたと言います。2つ上の姉が当時の状況を細かく手帳に綴ってくれていたそう。

「“ちょっと指が動いた”とか “透析を24時間やり始めた” とか、誰が見舞いに来てくれて、誰が何を持ってきてくれたかなどを記録してくれていて、とてもありがたかったです」

また、深刻な状況でも、家族がユーモアを忘れずにいたことで、常に笑いが絶えなかったそう。「家族の存在は大きな支えだった」と振り返ります。清水選手が食べたいアイスを探しに、家族総出で近所のスーパーやコンビニをあちこち探し回ったり、妹はお腹に子どもを抱えながら何度もお見舞いに駆けつけたり。

「私は一度心臓が止まった後、生き返りました。私がこの病気を発症した時に妹の子どもが生まれたので、姪と一緒に第二の人生を生きている感覚です」

そして、トレーナーとして担当していたチェアスキー選手が見舞いに来てくれた際、日常で使う車いすを持ってきてくれたそう。病院のものとは違い、コンパクトで小回りが利くことに驚き、思わず病院内をグルグルと移動してしまったと言います。

「障害を持ったことで、パラスポーツができると思いました。その時すでに、『何の競技にしようか』という思考になっていました」

最初は陸上競技を考えていましたが、最終的には自身の地元がある近畿地方の車いすバスケのチームへの入団を決めました。

「見学をした時、厳しいトレーニングをしていたこと、そしてメンバーが面白く魅力的だったことが決め手となり『ここでやりたい』と思いました」

元々の身体能力の高さに気概が上乗せされ、車いすバスケを始めて約2年で日本代表候補選手に選出されました。その背景には、「どういうパラアスリートになりたいか」を最初から考えていたことがあります。

「スポーツに限らず、人生においてありたい自分像があると、日々そこに向かっていけます。私は『人を感動させるプレイヤーでありたい』と決めました」

転機となったのは、東京パラリンピックに続き出場したパリパラリンピック。観客の前でプレーができ、これまで支え続けてくれた家族も応援に駆けつけたと言います。

「『感動した』といった感想を何気なく言われた瞬間、思い描いていた自分像になっているのではと感じました」


父から聞いた「人間万事塞翁が馬」が自身の軸に

「もっとうまくなりたい」という気持ちに突き動かされていると話す清水選手は、小学校の時に父親から聞いた「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」の言葉が心の中にあると言います。幸か不幸かは、一概には決められないという意味のことわざです。

「良い時もあれば悪い時もあるのが人生。良い時こそ冷静になり、悪い時こそ次は絶対良いことがあると思い行動する。動いたら何か変わるかもしれないとの思いのもと、まずは1回やってみようという精神は、自身の軸になっています」

それは競技だけではなく、日常生活の中でも発揮しています。

2025年に開催された大阪・関西万博で、あるパビリオンの案内人の応募があった際、「やってみよう」と思い挙手しました。清水選手を含めた車いすユーザー14人と、障害のないアテンダント36人の合計50人が一緒に研修を受け、パビリオンで案内役を務めました。最初はお互い気を使っていたのが、徐々に冗談を言い合ったり、言葉より先に動く人が出てきたりと、変化していったそう。

「立場が異なる人や場所に紛れ込み、一緒に何かをすることの大切さを発見しました。このような環境下で自分の考えを発信し、意見を言い合える機会をどんどん作っていきたいと思う経験になりました」

車いすバスケは、道具をいかに使いこなすかの経験値がものを言う一面も。50歳近くになっても日本代表選手として活動している人がいるため、自身の足の調子と相談しながら、まだまだ第一線でプレーしていきたい気持ちを持っていると言います。

「これまで出場した東京そしてパリでのパラリンピックでは、下位の順位でした。パラリンピックの借りは、パラリンピックで返さないと。絶対にメダルを獲得したいです」と語気を強めます。

これからもやりたいことがたくさんある清水選手。症例が少ない褐色細胞腫の当事者としての発信をはじめ、故郷の滋賀県や長浜市が抱える人口減少やスポーツをしない子どもが増えている課題に対して、健康寿命を伸ばすために現在もトレーナーの勉強に励んでいます。

「それに、もう一度走りたいですね。リフティングもしたいです!」

日進月歩の医療、そして、たゆまぬ努力を続ける姿勢。その夢が実現する日は、そう遠くないかもしれません。

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