チェンジマネジメントで加速するライフサイエンス業界の変革——CXとAIの共創がもたらす組織の未来
構造変化が加速する製薬・ライフサイエンス業界において、「戦略はあっても組織や人が動かない」という壁に直面する企業は少なくありません。電通デジタルでは、この課題に取り組むチェンジエージェント(組織変革を推進するリーダー)の皆さまに、「ヒューマン・セントリック」「CX」「AI」の3つのキーワードを携えて伴走し、課題解決に取り組んでいます。ライフサイエンス業界における変革の難しさはどこにあるのか、変革を組織に定着させていくためにはどんなマインドセットが必要なのか。執行役員の安田 裕美子、dentsu health(医療・ライフサイエンス領域)をけん引する水田 聖司、登坂 統彦の3人が、変革の道筋をひもときます。
なぜ変革は立ち止まるのか。「人間中心」で描く新たな顧客体験
水田:この数年来、多くの大手製薬企業が「トランスフォーメーション・トレッドミル*1(変革の空回り)」と言われる事態に陥っており、大きな経営課題となっています。これは、走ってもその場で留まり続けるランニングマシン(トレッドミル)のように、課題の本質に向き合わないまま変革を繰り返すことで組織に生じる悪循環を言います。
度重なる変革で現場が疲弊する一方で、医療従事者との関係はなかなか向上しない。まさにトレッドミルで懸命に走り続けているのに、実際には一歩も進んでいない。そう感じている大手製薬企業の担当者は少なくありません。
安田:それは他の多くの業界でも見られます。変革が終わりのない日常となった現代においては、「社員一人一人が自律的な変革を担えるか」、これこそがあらゆる組織において最も重要な問いになっています。
登坂:トランスフォーメーション・トレッドミルを解消するための手段の一つとして、我々はヒューマン・セントリック(人間中心主義)という考え方を組織全体に浸透させることを提案しています。ヒューマン・セントリックとは、企業活動や製品・サービス開発に際して、顧客や社員の価値観、感情、体験、課題を起点に考えることを言います。
一方で、ライフサイエンス業界には、「ペイシェント・セントリシティ(患者中心主義)*2」という思想が長きにわたって深く根付いています。
マーケティング戦略では、ペイシェント・セントリシティはスローガンに留まり、「厳しい臨床試験をクリアした画期的な新薬なのだから、使わない手はないはずだ」というプロダクトアウトの思考に終始しています。
また、こうしたプロダクトアウト思考の延長線上で、ファントム・ターゲット*3(実体のない架空のターゲット像)を想定したマーケティングやコミュニケーションが通例となり、業界の課題となっています。この課題を解決するには、ヒューマン・セントリックを浸透させることが不可欠なのです。
水田:ヒューマン・セントリックの浸透とは、言い換えればペイシェント・セントリックを現場まで貫き通すプロセスそのものです。マーケティングはもちろん、評価制度やインセンティブ、採用基準まで「人間中心」にすることで初めて、組織が再創造されると我々は考えています。
現場の解像度を上げる。医師の真の課題を可視化する「CX設計」
安田:組織全体にヒューマン・セントリックを浸透させるためには、CXの設計が重要になります。顧客の課題と医師の提供する解決方法を、CX視点でどうつなげるのか?それが我々が苦心している点です。
登坂:営業・マーケティング・メディカルが別予算・別KPIで動く「組織の縦割り」ですね。これによって一貫した医師の体験シナリオを作ることが困難になっています。
そうした状況下で体験を設計するための手法として我々が活用しているのが、顧客が叶えたい目的から課題を紐解く考え方である「Job理論*4」を応用した「Fever Curve*5」です。これは医師の望むアウトカムと現状の満足度を基にスコアを算出し、医師が本当に困っている領域を可視化する手法です。
さらに、このスコアと複数の活動データをAIで分析することで、医師が最も反応する接点に資源を集中させるオプティチャネル*6戦略も視野に入ってきます。最終的には、医師一人一人のニーズに深く応える、究極の個別最適化を目指します。
安田:データ×AIで最適な接点を選んで顧客接点を徹底し、個別最適化を目指すというロードマップは、世界のCX戦略の最前線です。
この施策が今まで後回しにされてきた理由は、度重なる改革によって現場が目の前の対応に追われる「積み重なる変革」にありました。しかし、この渦中にあっても顧客に寄り添う体験設計を作り続けた企業だけが、次の10年の競争優位性を築いていくことができます。
水田:変革の本質は大規模なIT投資ではなく、「何を測り、誰が意思決定するか」という仕組みの設計にあると我々は考えています。
例えば、ある希少疾患の薬の事例ですが、エビデンスに加えて、実際の患者のリアルな悩みの声を可視化して医師に届けたところ、採用率が上がったという報告があります。他業界では普通に行われているコミュニケーションが、ライフサイエンス業界でもきちんと機能するということは、もっと広く認識されるべきだと思っています。
規制の壁を突破し、「他業界の先進CX」を医療現場へ逆輸入する
水田:2026年1月、電通グループ唯一のメディカル・ヘルスケア専門エージェントだったdentsu health Japanは電通デジタルと合併し、ヘルスケア領域の総合支援サービス「dentsu health」を強化しています。他業界の先進的なCXやテクノロジーを医療領域へ逆輸入するという思想の下、より深く、本質的な支援を提供していきたいと思っています。
安田:電通デジタルの最大の強みは、製薬業界ならではの厳格な規制や専門知識を踏まえて現場が使える形に落とし込む翻訳的創造の実行力です。グローバルネットワークのMerkle社とも連動し、世界基準のCX戦略を日本市場向けに最適化して展開しています。
さらに、この高度なサイエンスやメディカルの知見を、保険・食品・消費財など、他産業のヘルスケアやウェルネス領域の事業開発に生かす取り組みも始まっています。
登坂:従来の予防・治療領域に留まらず、他業界の領域である未病や「豊かに生きる領域」への拡張を推し進めています。業界全体の「ゼロからの再創造」を支援しつつ、その知見を社会へ還流することで、未病から治療までを一気通貫で支える統合的アプローチを実現する。電通グループならではの提供価値だと考えています。
「AI疲労」を超えて、人間とAIが協調する未来へ
登坂:AIの導入が進む一方で、運用・定着の難しさから現場が疲弊する「AI疲労」という課題が顕在化しつつあります。ライフサイエンス業界におけるAI疲労の正体は、技術に対する拒絶ではなく、「検証負荷の増加」「PoC(実証実験)の形骸化」「ガバナンスと業務設計の欠如」にあります。データ精度や安全性が厳しく問われる環境において、AIの出力を人間の手で確認・修正するプロセスが過度な負担となり、スケールする業務モデルを構築できていないことが問題の核心です。
この障壁を乗り越えるためには、人とAIの協調関係を築く「共同知能」の意識転換が不可欠です。AIを「完璧な正解を出す機械」ではなく「仮説提示のパートナー」と捉え直し、AIの生成・人間の検証・承認という役割分担を埋め込んだ業務プロセスを再構築すること。この構造転換こそが、オプティチャネル戦略を軌道に乗せ、最終目標である究極の個別最適化を実現する基盤となります。
安田:「AIが提示した仮説を基に、人間が最終判断を下す」という共同知能の構造は、実は「医師が膨大なエビデンスやガイドラインを参照しながら、目の前の患者に合わせて最終的な処方判断を下す」という医療行為の構造と完全に一致しています。そう考えると、ライフサイエンス業界こそが、世界で最も共同知能の本質を高いレベルで理解し、実装できる素地を持っている業界といえるのではないでしょうか。
水田:AI疲れはテクノロジーの問題ではなく、変革の設計の問題だと我々は捉えています。dentsu Japanは、2026年5月に独自のAI戦略である「AI For Growth 3.0*7」を発表しました。AIを単なる効率化のツールに留めず、企業のマーケティング変革と事業成長に直結する実装フェーズへと移行させ、伴走する取り組みです。当然、ライフサイエンス業界においても他業界同様の活用を見込んでいます。
「定着する変革」の先にある、新しい医療提供価値の実装
水田:最後に、組織の中で日々奮闘しているチェンジエージェントの皆さまに向けたメッセージをいただけませんでしょうか。
登坂:日本のライフサイエンス業界を変革するチェンジエージェントの皆さまは、組織のサイロや過去の慣習の中で、時に激しく消耗し、深い孤独を感じているかもしれません。ですが、前例の歪みに気づき、顧客の真の課題を捉え、共同知能によって具現化しようと格闘する姿こそが、変革の最前線です。私たちは同じ痛みを共有し、医師と患者の未来のために共に戦う伴走パートナーであり続けます。
必要なのは、巨大なシステム投資でも理想論でもなく、「現場の課題をどう解き、どう定着させるか」という最初の一手を設計することです。組織のサイロを越え、変革を現実のものとするためのプロジェクトを、ここから一緒に始めましょう。
安田:電通グループのAI戦略「AI For Growth」では、「わたしたちは、AIと高め合う。」をコンセプトに掲げており、人の知とAIの知を掛け合わせることで顧客や社会の成長に貢献することを目指しています。
数ある産業の中でも、人間の命や健康に直結するライフサイエンス業界は社会的に意義深いものであり、その変革に携わることに我々も強い社会的使命感を感じています。他業界での豊富な変革実績をライフサイエンス業界のルールや慣習へと最適に翻訳的創造し、業界の枠を超えて変革リーダー同士をつなぐハブとなることで、日本の医療提供価値の向上に貢献していきます。
水田:トランスフォーメーション・トレッドミルを解消するために必要なのは、さらに新しいシステムを導入することではありません。「ヒューマン・セントリック」「CX」「AI」の3つの要素を正しく組織に浸透させることです。これにより現場に無理なく根付く「定着する変革」が実現します。その実現のための仕組みは既に揃っています。次の10年の医療のあり方を変える変革を、ぜひ私たちと共に実装していきましょう。
用語解説
*1 トランスフォーメーション・トレッドミル:課題の本質に向き合わないまま度重なる変革を繰り返し、組織や現場が疲弊してその場にとどまり続ける悪循環のこと
*2 ペイシェント・セントリシティ:医療や医薬品開発において、患者の視点やニーズを最優先に考える「患者中心主義」の思想
*3 ファントム・ターゲット:現場のリアルな医師・患者像ではなく、企業側の都合や想定で作られた実体のない架空のターゲット像
*4 Job理論:顧客が特定のプロダクトやサービスを「雇用(採用)」するのは、生活上の特定の「片付けるべき仕事(Job)」を達成するためであるとするマーケティング理論
*5 Fever Curve:Job理論を応用し、顧客(医師)の望む成果と現状の満足度のギャップ(=本当に困っている領域・痛み)をスコア化して可視化する独自の手法
*6 オプティチャネル:単に複数のチャネルを網羅するのではなく、データ分析に基づき顧客ごとに「最適な接点(チャネル)」を厳選してリソースを集中させる戦略
*7 AI For Growth 3.0:電通グループが推進するAI戦略。AIを単なる効率化にとどめず、企業の事業成長やマーケティング変革に直結するレベルで実装・伴走する取り組み
関連サービス
dentsu health
他業界で実証された顧客体験の知見とAI活用の実績を、医療・ライフサイエンス領域へ。戦略の策定から現場への定着まで、一気通貫で伴走します。
PROFILE
プロフィール
安田 裕美子
電通入社後、ビジネスプロデュースやデータドリブンマーケティング推進を経て、2016年に電通デジタルの設立に参画。DX領域の企業コンサルティング、事業のサービス化、ビジネスモデル変革支援、顧客接点構築、施策マネジメントなどに従事。2022年から現職。
登坂 統彦
リアルワールドデータを活用したマーケティング戦略立案やコミュニケーション開発を支援することで、より患者に寄り添ったペイシェント・セントリックな治療体験やサービス提供の実現を目指す。長年、ライフサイエンス企業のマーケティング部門およびメディカルアフェアーズ部門の戦略支援を中心に活動。各種法規制・業界レギュレーションを遵守はもちろん、医療政策、社会保障制度を考慮した、医療用医薬品の医療従事者向け製品プロモーションや患者サポートプログラム、疾患啓発プログラム開発の豊富な経験を持つ。
水田 聖司
2000年株式会社電通入社。各種業界のデジタルマーケティング支援を経て、2016年より製薬企業の営業活動効率化や医療情報提供プラットフォーム開発など、ヘルスケア領域の事業開発を推進。2025年に株式会社dentsu health Japan代表取締役社長執行役員に就任後、2026年1月の同社合併に伴いdentsuhealth室 部門長に着任。医療・ライフサイエンス領域の領域横断ソリューションおよび新事業創出を推進している。
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