足を痺れさせない座り方と、無駄なく漕ぐスキルを探求
「次世代選手と切磋琢磨したい」車いす陸上選手・古畑篤郎の好奇心
小学校5年生で車いす陸上に出合った時、「風を切って走る感覚がとても気持ち良かった」と思い返す古畑篤郎選手。先天的脳性麻痺で足に障害があり、日常生活で車いすを使用しています。インドア派だった少年は、今では日本代表選手に。持ち前の強い好奇心で競技の向上以外にも関心を持つ古畑選手には、思い描く二つの夢がありました。
車いす陸上/100m
パラ陸上競技には、車いす、義足、視覚障害、知的障害など、様々な障害のある選手が出場する。車いすの脳性麻痺の選手は30〜34の番号に分けられ、数字が若いほど障害は重くなる。古畑選手のクラスはT34。「T」は競争・跳躍種目を表す。ルールは、健常者の競技と同じ。
リコーダーとの出合いがきっかけで障害を自覚
先天的脳性麻痺の古畑篤郎選手が自身の障害を自覚したのは、小学校3年生の時でした。それは、リコーダーの授業が始まった時のこと。生まれつき足に強い障害を持つことに加え、手にも少し障害があり、手先を使う作業は得意ではありませんでした。
そこで、片手のみでふける特殊な器具のついたリコーダーを両親に用意してもらったといいます。
「周りも皆リコーダーを始めるタイミングだったので、自分だけ違うものを使うことで“違い”を思い知らされました。この時、他の人と同じフィールドで勝負できないことがあるのだと初めて意識しました」
幼少期から外で遊ぶより家でゲームをする方が好きだったこともあり、友人との違いは特に感じずに過ごしてきました。しかし、その気づきをきっかけに「そういえば」と思うことが次々と思い起こされていったと振り返ります。
「これが障害か、と感じたのがその頃です」
「自分にもできるスポーツがあるんだ」
古畑選手がパラスポーツと出合ったのは、小学校4年生の時でした。二つ上の兄のクラスに車いすバスケの選手が来ることになり、校長先生から「こういう機会はあまりないから、受けてみたら」という言葉をかけてもらったそう。
「特別にその行事に混ぜてもらい、初めて車いすバスケを観ました。その時、『自分にもできるスポーツがあるんだ』と思ったんです」
そうして始めてみた車いすバスケは楽しく、コミュニティもどんどん広がっていきました。その一方で、脳性麻痺の特徴が足を引っ張るのを徐々に感じ始めたといいます。
「空間認識能力が弱いので、例えばリバウンドの際、ゴールリングやバックボードにはじかれたボールがどこに落下するかを予測するのが難しかったです」
そして小学校5年生の時、障害を持った子どもたちがスポーツを体験するイベントに参加したことが転機となります。
「母が探してきてくれたのですが、2泊3日ほどのキャンプでバスケ、テニス、陸上競技を体験しました。その中で、陸上競技の風を切って走る感覚がとても気持ち良かったんです」
それに、と古畑さんは続ける。
「競技用車いすの『レーサー』のフォルムもとてもかっこよくて惹かれました。気づいたらどんどん陸上にのめり込んでいきました」
足の痺れと格闘した競技用車いす
三輪のレーサーは、前に一輪、後ろに二輪ついている流線型です。正座の姿勢で座席に乗り込み、体を屈(かが)める低姿勢になるため、空気抵抗を抑えた走行が可能です。通常の車いすとは全く乗り方が違うため、慣れるまでに時間がかかる選手は少なくありません。古畑選手も例外ではありませんでした。
「正座姿勢だと足が痺れます。脊髄損傷などで下半身の感覚がない選手だと抵抗なく乗れることもあるのですが、脳性麻痺の選手は苦労することが多いです。最初は痺れに耐えられず、『早く日常用の車いすに乗り換えたい!』と思っていました」と振り返ります。
今でこそ、痺れることは少なくなってきましたが、工夫は続けているといいます。
「正座姿勢の中でも“半正座”といって、両足に体重を乗せずに重心を逃すような座り方をしています。それをポジショニングというのですが、その位置を自分で考えて、足が痺れず、かつ、上手く車輪を漕ぐ手に力を伝えられる座り姿勢を探し続けています」
脳性麻痺の車いすクラスでパラリンピック種目になっているのは、現在100m走と800m走の2種目のみです。その時々でパラリンピック種目が変更になることはあるものの、現在は100m走に特化して練習に励んでいます。
車いす陸上の中には30代後半から花開く選手も
身長161cm、体重57kgの古畑選手は、所属する脳性麻痺のT34クラスでは小柄で軽い選手の部類に入るそう。
「体格の良い海外の選手と戦った時、体重が軽いためスタートダッシュは良いのですが、50mを過ぎてからの伸びが今ひとつです。それが昔も今も課題です」
選手としての転換期は、2012年のロンドン2012パラリンピック競技大会に出場した時だったと思い返します。結果は予選敗退でしたが、8万人の観客の声援の中でレースをした感覚は今でも鮮明に覚えており、「スタジアムが揺れる感じでした」と表現します。
「車いすの陸上選手には40代の選手も第一線で戦っているので、息が長いスポーツだなと思っています。体力が落ちたとしても、いかに車いすに対して無駄なく力を伝えていくかの技術力がどんどん上がり、30代後半から花開く選手は少なくありません。僕もそうなれるようこれからも成長していきたいと思っています」
自身の活躍だけに留まらず、若手選手を引き上げていきたいとも話します。
「世界大会に出場する年下の日本人選手が続いていない状況なので、同じT34クラスの次世代選手ともっと切磋琢磨できるよう、自分ができることをしていきたいと思っています」
今後の展望は、声の仕事とパラスポーツの普及
自身のことを「非常に好奇心が強い」と分析する古畑選手は、競技以外の世界にも高い関心をもっています。「学生の頃声優になりたくて、高校卒業後は声優の専門学校に進学し、さらに養成所にも通いました」と少し照れながら打ち明けます。
「声優は人気のある職業なので、狭き門です。専門学校時代、声優になるのは断念してしまったのですが、元々ナレーションをしたくて勉強を始めたので、競技引退後に縁があると良いなと思っています」
最近は講演の機会もあるとのこと。人前で話す時にこれまで培った発声練習など話すスキルが役立っていると感じることがあるといいます。
声の仕事とパラスポーツの普及という二つの夢に向かって、古畑選手はこれからも颯爽と駆け抜けます。
「スポーツに出合い、世界が広がりました。恩返しも含めて陸上を主軸に、他のパラスポーツにも関わり続けたいと思いますし、例えばそれがコーチの道であれば、なお嬉しいと思っています」
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